橘氏ゆかりの御寺 遍照山西福寺

南楽 玉水焼

茶道の茶碗で有名な楽焼、玉水の地で開かれた楽焼は南楽、玉水焼と呼ばれました。西福寺はその楽家の菩提を弔ってきました。

 

玉水焼は楽家の系統を継いだ1つの分派です。楽家の一入の子である弥兵衛(のちの一元)が、その母の故郷である玉水の地に興した内窯楽焼の窯です。

 

玉水焼の系譜
          没年          名前     
初代 一元  享保8年3月27日   弥兵衛→一元   (一入の子)
二代 一空  享保5年4月13日   弥兵衛→一空   (一元の長男)
三代 任土斎 宝暦13年3月9日   弥兵衛→任土斎  (一空の弟)
四代 楽翁  明和6年7月5日    伊縫甚兵衛→楽翁 (玉水村八人衆)
五代 娯楽斎 安永5年7月29日   宗助→甚兵衛→娯楽斎 (楽翁の子)
六代 涼行斎 安永7年6月18日   惣助→弥兵衛・一介・涼行斎
七代 浄閑斎 天保8年5月17日   惣助→浄閑斎
八代 照暁斎 明治12年10月10日 甚兵衛→照暁斎
(この後明治時代に断絶)

 

戒名
初代 一元  樂一元禅門
四代 楽翁  閑齋樂翁浄心居士
五代 娯楽斎 娯樂齋閑臾浄安居士
六代 涼行斎 凉行齋樂周布居士

日本樂家 伝来

安永5年(1776年)に西福寺中興活濟上人が玉水焼家元である伊縫家の過去帳に書いたもの。(出典:陶説 第47号)

 

従唐土来者楽細工の人を飴屋と云、其妻日本人後に楽焼を作る尼焼と云。其の子を長次郎と云。天正中に豊臣秀吉公、専ら茶を楽み茶器を好。楽焼を賞翫あり、依之召長次郎楽焼細工を命ぜられ銀の楽印を給う。則長次郎を楽一代と云、二代目を楽吉兵衛と云、三代目同吉兵衛と云、此人をノンコとも申す。四代目一入と云、五代目弥兵衛一元と云、六代目弥兵衛を一空と云、七代目弥兵衛を任土斎と云、生涯無妻故に後胤絶す、故に祖父浄心は五代目一元の由緒有故に任土斎死期に及び豊臣秀吉給る銀の楽印並に楽家伝来の秘書悉く明和二年酉の六月廿四日我家へ附属在事明鏡也。是故に自今楽家正統と申は我家に留也。後代亡失を恐て書印置者也
安永五丙申歳八月六日 
楽家 伊縫弥兵衛