橘氏ゆかりの御寺 遍照山西福寺

西福寺の建つ玉水の地で生まれた真言宗の神道について

神仏習合と御流神道玉水流

奈良時代に大陸より伝わった仏教は、日本の神祇信仰と次第に交わっていきます。
各地で神宮寺が建立され、境内に鎮守社を建てて読経を行われ、神は仏法を守護する存在として考えられていきました。
平安時代には弘法大師空海が密教を伝え、ここに本格的に神仏習合が起こります。
神は人を救うために仏が姿を変えてこの世に現れたとする本地垂迹説です。
この世はすべてが仏であるという密教の考えと、神羅万象に神が宿るという神道が合体するのは自然な流れでした。
日本人が持つ死生観であったり、あの世や異界・霊という存在が神仏習合によって解釈され説明がされます。
現代に続く日本の宗教観は、神も仏も共に尊き存在であるという1000年以上続いた伝統が繋がっているものだと思われます。

 

御流神道とは真言宗に伝わる神道(両部神道)の一派です。天神地神より代々天皇家にて相承されてきた神道が、嵯峨天皇より弘法大師空海に伝えられたとされるのでその名を御流といいます。
他に奈良の長谷寺を中心とした三輪流神道が存在します。
両部とは両部の曼荼羅であり、伊勢神宮の内宮外宮は胎金の曼荼羅世界が地上に現れたものであると説きます。
内宮―胎蔵界―日輪―天照太神
外宮―金剛界―月輪―國常立尊
このように伊勢両宮を考え発展してきたのが両部神道です。

玉水流の開祖 活濟上人

玉水流の開祖、活濟上人は宝永5年(1708年)6月晦日に和州添下郡鹿畑村に生まれました。
上人は享保14年(1729年)3月に南都の千光院にて神道潅頂に入壇し、南都に伝わる御流神道を受法します。
その後、延享元年(1744年)3月に南都空海寺にて神道潅頂を執行、入壇は7000人を数えたといいます。
宝暦4年(1754年)より上狛村延命院にて英性より御流神道の一流を伝授され、明和4年(1767年)に西福寺にて神道灌頂を執行。
明和8年(1771年)に御流神道口決を著し御流神道玉水流が成立しました。
またその過程で明和2年(1765年)より安永5年(1776年)までの12年間にわたり全国の僧150人に御流神道の一流伝授を行います。
その中には後に玉水流の正嫡となる智積院23世鑁啓や24世胎通、26世浄光も含まれていました。

 


神祇中興の祖 活濟上人像

智積院へ伝わる 文濟法印

活濟上人によって開かれた玉水流は、活濟上人より智積院23世鑁啓僧正に伝えられましたが、実際の儀式である神道潅頂の執行はなされていませんでした。
活濟上人は神道灌頂執行の大願を起こしますが、その願いはかなわず安永6年8月6日に入寂します。
上人の弟子である西福寺住職文濟は鑁啓より懇望され活濟上人の十三回忌に合わせ神道潅頂を当寺にて執行しました。

 

西福寺に残る神道潅頂西福密寺記録によれば

 

天明8年の秋より100日間の前行を行う。
寛政元年2月23日 受者印可
    2月29日 合薬糸縒幣切を始める
    3月6日  習礼
    3月7日  開白
開壇者 当寺現住神祇傳燈大阿闍梨権大僧都法印文濟大和尚 年臘五十八歳
受 者 智積院先僧正鑁啓 御年七拾ニ歳

 

この潅頂は50余人に附法を行い、結縁潅頂の入壇者は4500人に上る大規模なものでした。

 


文濟法印像

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