橘氏ゆかりの御寺 遍照山西福寺

奈良時代から続く西福寺の歴史と改革について

創建と恵隠大徳

西福寺の創建は奈良時代、天武天皇が除病延命の為に勅命を下します。勅命をうけた恵隠大徳は大和国十市郡多太神に祈ると井手の玉ノ井へ行けと神託をうけます。玉ノ井に到った恵隠はそこで地主神の味耜高彦根命と下照比売命と出会います。
ニ神に導かれた恵隠はそこで一本の白檀の木を見つけ、そこから釈迦牟尼仏と無量寿仏を彫刻します。この地に一宇の堂を建立、二尊を安置し井堤寺と称しました。勅額を賜り摩尼遍照山大光明教寺と号しました。

中興 橘諸兄と中世

天平14年(742年)、井堤寺は橘諸兄(684〜757)によって再建されます。
諸兄は井堤左大臣と称し、井手の地に居住を構えていました。
金堂般若殿を建立し本尊釈迦如来を安置、脇侍の文殊・普賢・梵天・帝釈天・四天王を新たにつくります。
天平15年(743年)には僧180人を召して大般若経法会を修し、五重大塔・東室・西室・僧坊・食堂・鐘楼・山門などが整備され、橘氏の氏寺とされました。
金堂般若殿の四面回廊の周りに池水を貯め、山吹を植えて水に映して黄金世界をつくったとされます。
諸兄が亡くなった後、孝謙天皇より所領の寄進を賜り、また仁明天皇より檀林皇后橘嘉智子の氏寺として所領と伽藍再興の太政官府宣を下賜されます。この後当寺は奈良興福寺の別院となり法相宗となります。
弘法大師空海が当寺に入り不動尊を彫刻、21日間の護摩修行を行いました。当寺別院観音寺にしばらく住み、大日如来を彫刻し南院を建立。これより法相真言兼学の寺となります。
治承4年(1180年)、平家の南都侵攻の際に当寺は南都側につき、攻撃を受けて伽藍が焼失します。
文治元年(1185年)、後白河法皇の院宣により再建が始まり、建久3年(1192年)には再建供養が行われます。
元弘3年(1333年)、御醍醐天皇が笠置に移り、当寺も南朝側について戦いますが、敗北。所領は没収され空寺となり、暦応3年(1340年)には伽藍が焼失します。
嘉慶元年(1387年)、良盛によって一堂を再建され無量寿如来を安置し本尊とします。その後、釈迦堂・鐘楼・大門・僧坊・方丈などが建立されました。
天文14年(1545年)、泉河(現木津川)の大洪水によって諸堂は破却されます。その後、寺地を移して良興によって一宇の精舎が再建され、寺号を摩尼遍照山西福教寺と改称しました。

近世の復興 勧修寺の末寺となる

元禄元年(1688年)、大和国添下郡鹿畑村神宮寺の住職であった實祐は弟子の實濟を連れて当寺に入寺します。
實祐は幾多の災禍に遭ってきた本尊阿弥陀如来を再興し、当寺は實祐と縁のあった高野山曼荼羅堂の客末となります。
元禄6年(1693年)、当寺の建つ綴喜郡水無村が京都山科勧修寺の所領となります。当時勧修寺は濟深法親王が入寺し宮門跡として復興が進んでいました。
實祐の後を継いだ實濟は正徳3年(1713年)、御室宮より権大僧都・法印号と色衣(香衣・萌黄)が許可され、当寺はこれより色衣寺となります。
享保19年(1734年)、實濟は自身と引導した弟子500人の為に土砂加持一千座を行い、その成満の日に入寂しました。
實濟の後を継いだ活濟は西福寺を中興する人物となります。
活濟は享保7年(1722年)に当寺に入寺し、享保14年(1729年)に大和国長弓寺にて伝法潅頂に入壇、その後師實濟より報恩院流、南都千光寺にて神道潅頂、滋賀石山寺にて保寿院流・西院流・石山石流、上狛村延命院英性より御流神道・菩薩戒・安祥寺流・三宝院流を伝授され、御室宮より法印号・上人号・色衣を許可されます。
活濟は各地で結縁潅頂を行い、入壇者は22000人を数えました。また、延享2年(1745年)には禁裏正月御修法に出仕し、宝暦3年(1753年)には勧修寺宮寛宝法親王の入壇潅頂の際に十弟子の役を勤めます。
また、活濟は延享4年(1747年)に現在の地を購入し寛延2年(1749年)には本尊精舎・地蔵堂・山門・鎮守社を再建します。宝暦8年(1758年)に高野山曼荼羅堂客末から勧修寺宮に末寺より上の格式で迎えられ、ここに西福寺の再興がなされます。その後、明和2年より安永5年に至るまで、毎年両部神道の伝授を行い全国の150人の僧にその法を授けます。明和4年3月には西福寺にて伝法潅頂と神道潅頂が執行され、8人が入壇し結縁潅頂は6000余人にのぼりました。
活濟の後、文濟の代にも当寺にて神道潅頂が執行され、この地で生まれた御流神道の法流が智積院へ繋がっていきます。
寛政4年には本堂が落慶、その後純濟・品濟・長濟と続いた当寺は、長濟の急死により法流が途絶えます。
幕末の頃、智積院の学僧であった妙海が勧修寺の命にて当寺の住職となりますが、4年後に弘前の最勝院へ移り、明治2年に同じく智積院の学僧であった尭文が住職の席を継ぎました。

近代から現在へ 智積院の末寺として

明治22年3月、尭文の代に智積院准能化である吉堀慈恭を迎えて興教大姉750年御遠忌法要と菩薩戒会が行われます。
その後、八幡禅我が住職となり明治35年には智積院化主瑜伽教如を迎え菩薩戒会が行われます。明治26年には西福寺は勧修寺末を離れ智積院の末寺となります。
大正4年、八幡禅我は大正天皇御即位に合わせて大規模に仏像・仏画の修復と什物の新調を行いました。
その後、昭和60年の八幡覺真の代に弘法大師1150年御遠忌記念事業として納骨堂が完成します。
現在の本堂は平成10年、八幡覚堯の代に山門・地蔵堂・客殿と共に再建され現在に至っています。