橘氏ゆかりの御寺 遍照山西福寺

江戸時代、淀町にあった勝寿院に関する年表

年表

元禄8年(1695年)8月3日
   勧修寺宮濟深法親王、将軍徳川綱吉より所領として綴喜郡水無村・山本村・久世郡久
   世の計500石を寄進され勧修寺宮領となる。

 

享保20年(1735年)秋
   快辨、淀城主越知正甫の命にて勝壽院住職となる。

 

元文2年(1737年)秋
   快辨、勧修寺宮より上人号に叙される。

 

元文2年(1737年)10月
   快辨、淀城主が病気平癒の為、南都春日大社にて五穀断水を行い般若心経1万巻、唯
   識三十頌1百軸の祈祷を行う。

 

元文5年(1740年)8月
   快辨、清水谷藤亞相卿主祭の勅使を招いての鳩峯放生会を行う。

 

元文5年(1740年)秋
   快辨、五大虚空蔵法を修し霊験により豊作となる。淀城主より金泥彩色の五大虚空蔵
   1幅を寄進される。

 

寛保元年(1741年)夏
   快辨、淀城主稲葉家より日照りの為祈雨の命を受け、七日間の水天供を修する。3日
   目の朝に雨が降り城主より家紋を織った袈裟を賜る。

 

寛保3年(1743年)春
   快辨、城主の厄除けの為に大般若会を行う。これより毎年正・五・九に大般若会を行
   う。

 

延享3年(1746年)
   勝壽院、70石を永世賜る。

 

延享5年(1748年)
   快辨、日照りの為水天供を修し霊験により雨が降る。

 

延享6年(1749年)
   快辨、日照りの為水天供を修し霊験により雨が降る。

 

宝暦7年(1757年)春
   快辨、宥祥に勝壽院の席を譲り淀大徳寺に隠居する。

 

宝暦9年(1759年)4月
   快辨、この時智積院集議席(62歳、本山年数34年)

 

明和2年(1765年)8月25日
   快辨、遷化する。68歳

 

安永2年(1773年)3月18日
   快宥、敬寳(勧修寺慈尊院浄土院僧正)より勧流を伝授される。

 

寛政元年(1789年)10月
   快盛、敬寳(勧修寺慈尊院浄土院僧正)より勧流を伝授される。

 

寛政2年(1790年)8月
   胎通(智積院24世)、「城州淀勝壽院快辨上人傳」を書く。

 

寛政2年(1790年)11月
   快盛、敬寳(東寺学頭僧正)より勧流を伝授される。

 

寛政8年(1796年)3月
   快盛、この時智積院集議席(54歳、本山年数30年)

 

寛政11年(1799年)8月
   快盛、この時智積院集議席

 

寛政11年(1799年)9月12日
   快盛、智積院にて伝法大会を勤修し竪者の役を務める。

 

寛政13年(1801年)3月
   快盛、堺大寺遍照院にて河内延命寺真常より諸儀軌八十有巻の伝授を受ける。

 

享和元年(1801年)11月22日
   快盛、野州出流山千手院住職となる。

 

文化4年(1807年)1月27日
   宥盛、智積院にて正月打集の役を務める。この時智積院役席

 

文化6年(1809年)9月
   宥盛、智積院にて謙順(智積院28世)より諸流印信伝授の際、快盛の安流大巻物を
   伝授される。この時智積院辨才院住

 

文政4年(1821年)3月
   勝壽院にて大曼荼羅供が勤修される。

 

文政5年(1822年)8月13日
   宥盛、この時智積院集議席(43歳、本山年数27年)

 

文政6年(1823年)1月22日
   快専、隆賢より勧流を伝授される。

 

文政8年(1825年)8月15日
   宥盛、智積院にて伝法大会を勤修し竪者の役を務める。

 

文政11年(1828年)6月
   快専、弘賢より勧流を伝授される。

 

天保2年(1831年)8月
   宥信、範慧より幸心流を伝授される。

 

天保2年(1831年)10月
   快専、この時智積院前側席

 

天保6年(1835年)5月30日
   快専、この時智積院集議席(38歳、本山年数24年)

 

天保6年(1835年)10月4日
   宥信、この時智積院集議席(37歳、本山年数22年)

 

天保10年(1839年)3月
   宥信、勝壽院にて本尊入仏会大曼荼羅供を勤修する。

 

弘化3年(1846年)5月16日
   宥信、この時智積院集議席(48歳、本山年数32年)

 

文久3年(1863年)8月
   快住、勝壽院住職となる。

 

明治5年(1872年)4月
   快住、隠居する。