橘氏ゆかりの御寺 遍照山西福寺

江戸時代中期 西福寺中興の祖 活濟上人について

活濟上人の生涯

上人は宝永5年(1708年)6月晦日、和州添下郡鹿畑村に生まれました。名を淺之助といい、幼い頃は匂いの強いものを避けたといいます。
9歳の頃より龍天和尚に学び、享保7年(1722年)11月3日、西福寺に入寺し淺丸と号しました。享保9年(1724年)2月に實濟のもと得度し假名を恵海とします。
同年4月より四度加行を開白、翌年の11月に加行を成満。享保11年(1726年)4月より観音経一千巻真読をはじめ、7月の成満の日に寺に白髪の老人が訪ねてきます。上人に春日明神が造った千手観音を渡し老人は消えてしまいました。これより上人は千手供を日課とします。
享保14年(1729年)3月、大和国長弓寺にて伝法潅頂に入壇し、翌年の3月には南都千光寺にて両部神道潅頂に入壇します。
また、享保15年(1730年)6月より水谷頼母に入門し儒学・詩文・和歌を学びました。
同16年3月2日、権少僧都に任じられた上人は、6月より石山寺にて保寿院流を、また8月より15年の間、諸寺にて教相を学びます。
享保20年(1735年)7月8日には権大僧都に任じられ、元文4年(1739年)7月12日には法印号を賜りました。
同年7月、上人は上狛村延命院にて菩薩戒を授かり、翌年にかけて安祥寺流・三宝院流の伝授を受けます。
寛保元年(1741年)10月8日、御室宮より萌黄の色衣を許可され、翌2年3月には延命院にて伝法潅頂を開壇し大阿闍梨を務めます。
同月には摂州の毘陽寺でも伝法潅頂・結縁潅頂を執行し、入壇15人、結縁7000人に授けました。
また、8月より石山寺にて西院流、石山石流の伝授を受けます。
延享元年(1744年)3月、上人は南都空海寺にて両部神道潅頂を執行、4月には京西賀神光院にて結縁潅頂を執行しました。
延享2年(1745年)1月、東寺長者御室菩提院栄遍の命にて禁裏正月御修法の五大尊壇諸神供の役を務めます。
延享3年(1746年)12月16日、上人は御室宮より香衣の色衣と上人号を賜ります。
寛延2年(1749年)には寺を現在の地に移し本尊精舎・地蔵堂・山門・鎮守社を再建します。
宝暦5年(1755年)3月、勧修寺宮寛宝法親王の入壇庭儀潅頂にて十弟子の役を務め、同8年8月6日、勧修寺宮に末寺より上の格式で迎えられここに西福寺の復興がなされます。
宝暦11年(1761年)6月21日、千手供を修し瞑想すると壇上に金色に煌めく光が現れます。上人が手を伸ばすとそこに一粒の赤い舎利が現れました。
明和2年(1765年)4月より毎年両部神道の印可伝授をはじめ、明和4年(1767年)3月には西福寺にて伝法潅頂を執行、入壇受者8人、結縁6000人という大規模なものでした。
安永6年(1777年)8月6日、上人は秘印を結び70歳で入寂しました。