橘氏ゆかりの御寺 遍照山西福寺

西福寺便りで紹介した歴代住職の伝記のページです。

第12世 實祐和尚

實祐和尚は初め和州添下郡鹿畑村(現奈良県生駒市)の神宮寺住職を務めていました。元禄元年(1688)2月に弟子である實濟(西福寺第13世)を連れ西福寺に入寺します。西福寺の住職となった實祐は当寺を真言宗の寺院として整備を開始し、自身が授かった醍醐寺の法流をこの後代々住職が継承するとしました。また、これまで西福寺は無本寺(本山がない)でしたが、元禄年中に高野山曼荼羅堂の客末寺となります。元禄8年(1695)には西福寺の建つ玉水と水無の地が勧修寺宮(現真言宗山階派大本山勧修寺)の所領となり、この後明治時代に門跡制度が廃止されるまで玉水と水無の地は勧修寺宮の所領であり続けました。實祐は元禄9年(1696)に西福寺本尊である阿弥陀如来を再興、元禄年中に弘法大師を新造し真言宗の寺院としての形を整えました。また、元禄17年(1704)には西福寺の末寺である東福寺の本尊日光月光菩薩と十二神将がつくられ、所領内の西に阿弥陀如来を本尊とする西福寺、東に薬師如来を本尊とする東福寺がつくられ、東西の浄土をつくりだしたと考えられます。尚、東福寺は明治期に廃寺となり、跡地は現在不動堂となっています。西福寺を真言宗の寺院として整備した實祐は、その後の宝永2年(1705)2月22日に遷化します。實祐の僧侶としての階級は「法印」です。實祐の墓碑は境内の先師墓地にあり、現在の西福寺の姿を静かに見守っています。

 

第1号掲載

第13世 實濟和尚

實濟和尚は延宝2年(1674)4月14日に和州添下郡鹿畑村(現奈良県生駒市)で生まれました。父は大上六兵衛、母は黒田氏で伊野丸と名付けられました。貞享4年(1687)3月6日、13歳の時に鹿畑村の神宮寺住職であった實祐和尚(後の西福寺第12世)の弟子となり出家、僧名を實濟、假名を尭音房とします。元禄元年(1688)2月に實祐と共に西福寺に入寺、当時の西福寺住職であった深覺房宥昌に従い西福寺圓覺庵に入ります。實祐が住職となった後、西福寺は真言宗の寺院として整備が進み、元禄年中に高野山曼荼羅堂の客末寺となります。元禄8年(1695)には西福寺の建つ玉水と水無の地が勧修寺宮(現真言宗山階派大本山勧修寺)の所領となりました。同年、實濟は和州三輪山平等寺(現奈良県桜井市)にて伝法潅頂に入壇し正式な真言宗僧侶となります。元禄9年(1696)には西福寺本尊である阿弥陀如来を實祐と共に再興、宝永2年(1705)2月22日に實祐が遷化した後は住職として活躍します。宝永7年(1710)3月21日には亮範僧正(智積院15世)より報恩院流、11月25日には勧修寺宮慈尊院闊海僧正より勧流を伝授されます。實濟は正徳3年(1713)5月3日、仁和寺宮より権律師・権少僧都・権大僧都・法印の僧階(僧侶の階級)と色衣(香衣・萌黄)を許可されます。これより西福寺は代々色衣の着用を許可される色衣寺となりました。当時、萌黄の色衣の着用を許可される寺院は院家・院室(門跡寺院より許可される寺格)の称号を持つ寺院に限られていました。西福寺が異例の待遇を受けたのは水無・玉水の領主であった勧修寺宮の影響であったと考えられます。享保7年(1722)1月には井手村の真言宗六箇寺によって大般若経六百巻が作られます。その年の11月3日、後に西福寺中興となる活濟が15歳で西福寺に入寺し、享保9年(1724)2月20日に實濟を戒師として得度します。實濟はこの年の3月に綺田村蟹満寺にて伝法潅頂を開壇し、4月には蟹満寺の空範より報恩院流を伝授されます。享保19年(1734)12月3日より自身と引導の弟子500人の為に土砂加持一千座の修行を開白、元文2年(1737)には西福寺圓覺庵を再興します。元文3年(1738)10月27日に4年近くの歳月をかけ、一千座の土砂加持を成満、当日弟子である活濟に今日入滅すると告げ64歳で遷化しました。西福寺住職を36年間勤め、西福寺の礎を築きました。現在は歴代の住職と共に本堂に位牌が納められています。

 

第2・3号掲載

第14世 活濟上人

西福寺中興の祖である活濟上人は、宝永5年(1708)6月晦日に和州添下郡鹿畑村(現奈良県生駒市)の大塚長左衛門宗休の末子として生まれました。母は同郡高山村の伊藤五郎兵衛の子で名を加屋といいます。姓は藤原で幼名を淺之助と名付けられます。9歳の時より、龍天和尚(智積院第17世)より手習いを受け、享保7年(1722)11月3日、西福寺に入寺します。活濟は享保9年(1724)2月20日に西福寺住職實濟を戒師として得度し、3月19日に綺田村蟹満寺にて空範和尚より法流を印可伝授されます。4月17日より享保10年(1725)11月1日まで阿闍梨になるための行である加行を修行します。加行成満の後、享保11年(1726)4月8日より7月17日まで観音経一千巻読誦を修行します。その最終日、八ツ時に白髪の老人が現れ春日明神作の千手観音を與すと告げ消えました。この時より終身千手供を日課としたと伝えられています。享保12年(1727)には御室宮より権律師に任じられました。享保14年(1729)3月18日、活濟は大和国真弓山長弓寺にて祐源上人に随い伝法潅頂に入壇し、阿闍梨の位を授かります。3月22日より翌年の5月22日まで師である實濟より醍醐報恩院流を秘密伝授され實濟の正統な後継者となりました。3月28日には南都千光寺にて両部神道に入壇し、この経験が後に西福寺で開かれる御流神道のきっかけとなります。享保15年(1730)六月より水谷頼母に入門し儒学詩文和歌を学びます。(※この水谷頼母とは高月の阿弥陀寺に現在も墓碑があり、前大納言冷泉為村卿より和歌を教えられ勧修寺の侍臣兼医師であった人物です。活濟との親交により西福寺の檀那でもあった人物です。)享保16年(1731)3月2日、活濟は権少僧都に任じられます。6月7日には石山寺密蔵院の尊遍権僧正より保壽院流を伝授され、これより15年余りかけて様々な寺院にて教相(密教の理論)の勉強に邁進していくこととなります。享保20年(1735)7月8日、活濟は御室宮より権大僧都の僧階に任じられます。翌21年(1736)には弟子の賢濟が13歳で西福寺に入寺、活濟の弟子として出家しました。同年3月21日、活濟は現本堂の回廊に安置されている半鐘をつくります。元文3年(1738)10月27日、活濟の師であった西福寺第13世實濟和尚が土砂加持一千座を成満し、64歳で遷化しました。活濟は翌年の元文4年(1739)7月12日に御室宮より法印号に叙され、9月27日より上狛村大里延命院の英性より菩薩大戒を授けられます。この英性は活濟にとって密教・神道の師となる人物で、当時の南山城で正式な法流を伝授できる限られた人物でした。翌5年(1740)には英性より密教の法流である安祥寺流と三宝院流を伝授されます。寛保元年(1741)に活濟は御室宮より萌黄・黄色の色衣を許可されます。当時色衣を許可されるには相応の寺格や長年の修行が必要であり、實濟より続く色衣寺として西福寺が確固たる地位を築いていたことがわかります。寛保2年(1742)3月18日、活濟は師である英性が住職を務める上狛村延命院にて伝法灌頂を開壇し、大阿闍梨を務めます。この時、弟子である賢濟を導いて灌頂に入壇させます。これより活濟の活躍の場は南山城の外にも広がっていきます。3月28日には摂州川辺郡毘陽寺正覚院にて灌頂の大阿闍梨を務め、4月5日まで結縁灌頂を執行し七千余人の俗人を入壇させます。8月には石山寺密蔵院嚴遍より西院流の法流を、9月には石山石流の法流を伝授されます。また、延享元年(1744)3月15日より南都空海寺にて両部神道灌頂を執行し七千余人を入壇させています。この際、弟子の賢濟も神道灌頂に入壇しています。4月11日には京都西賀茂神光院にて結縁灌頂を執行し、八千余人に授けるなど名実共に密教・神道の大成者としての道を歩んでいきます。密教僧としての道を駆け上がってきた西福寺中興活濟上人は、延享2年(1745)5月15日より、その師である上狛村延命院英性より秘密諸儀軌を伝授され、翌3年1月には真言宗長者御室菩提院栄遍大僧正の命により、真言宗最高の儀式である玉躰安穏を祈る禁裏での御修法に出仕し、五大尊壇諸神供の役を勤めます。延享3年(1746)8月17日には如意輪観音を感得。12月16日には仁和寺宮より上人号と香衣(色衣)を許可され、延享4年(1747)10月20日には栄遍大僧正が東寺拝堂の際に前駈役を勤めます。寛延元年(1748)11月4日、現在の西玉水の南北四十間東西二十五間の地を二百三十金で買い、旧来の地より移転、四間十一間半の寺一宇・一間四方の地蔵堂・二間の表門・鎮守・二間四方の宝蔵・一間半二間の集所の建立を始めます。翌2年1月には棟上、5月15日に本尊阿弥陀如来が入仏されました。宝暦3年3月26日、勧修寺宮寛宝親王御入壇庭儀潅頂にて十弟子の役を勤め、宝暦4年(1754)9月頃より上狛村延命院英性より御流神道を伝授されます。また、この年の12月には水無村の真蔵院が活濟に譲渡され、真蔵院はこの後、西福寺住職の隠居寺となります。宝暦8年(1758)4月16日、西福寺は高野山曼荼羅堂末を離れ、上の格式として勧修寺宮末寺に迎えられます。宝暦8年には両界曼荼羅・真言八祖像がつくられ、翌9年に西福寺にて伝法灌頂を執行しました。この時、勧修寺宮末寺として、また真言宗の最も大切な儀式である灌頂をおこなう道場として、西福寺が中興されました。上人は宝暦11年(1761)6月21日に千手供を修し、瞑想観念すると赤色の舎利一粒が現れました。9月4日には阿字一幅を修復開眼、明和2年(1765)4月23日には御流神道の本尊である十一面観世音菩薩像一幅を開眼供養します。この年より安永5年(1776)まで、上人は毎年御流神道の伝授を行い、全国の百五十人の僧に法を伝えていきます。明和2年5月には師である實濟法印が所持伝来した不動明王像の火焔座を再興しました。明和4年(1767)3月には西福寺にて神道灌頂が執行され、八人が入壇し同時に結縁灌頂に入壇した者は六千余人でありました。明和5年(1768)には道場荘厳の為に本山である勧修寺宮より桃燈二張が寄附されます。明和8年(1771)、上人は古来より伝えられた御流神道に諸記を加え、伝授のテキストとして御流神道口決を著し、ここに御流神道玉水派を確立されました。安永6年8月6日、活濟上人は70歳で遷化します。上人は神祇中興祖 御流神道玉水派開祖と呼ばれます。江戸時代には新たな神道が次々と生まれ、古来より伝わる御流神道が批判される中、脈々と南都東大寺にて伝えられた法を改変することなく整え、広く伝授をおこない、その教えを全国に広めました。上人は智積院第23世鑁啓僧正にもその法を伝え、御流神道はこの後、智積院を中心に伝えられていきました。

 

第4・5・6・7号掲載

第15世 文濟和尚

西福寺第15世文濟法印の生まれた年は不明であるが、寛政4年(1792)10月15日に61歳で遷化していることから、享保17年中に生まれたこととなる。父は和州添下郡鹿畑村木村十兵衛、母は活濟上人の姉もしくは妹であり、文濟は活濟上人の甥にあたる。西福寺は實濟―活濟―文濟―純濟と代々血縁関係をもった者が住職を継いだ寺院である。同時期に活濟上人の兄の子である賢濟がおり、享保21年(1736)に西福寺に入寺、活濟上人の弟子となり出家している。この時、賢濟は13歳であり、文濟の年齢は5歳であった。兄弟子である賢濟が本来は西福寺の住職となるはずであっただろうが、不幸にも延享4年(1747)10月3日に24歳の若さで遷化する。よって文濟が活濟上人の後、西福寺の住職を継ぐこととなった。文濟の修行時代の経歴は不明な点が多いが、宝暦4年(1754)2月に上狛村大里延命院の英性より悉曇の伝授を受けている。同時期に活濟上人も英性より御流神道の伝授を受けているので、文濟も共に伝授されたのであろう。活濟上人の活躍の下、西福寺は寺院としての形を整えていき、宝暦8年(1758)に文濟は活濟上人より住職の席を継ぐ。同年11月21日に真言八祖像を文濟の名でつくり、活濟上人によって開眼供養がおこなわれた。活濟上人は、明和2年(1765)より毎年、御流神道の一流伝授をおこない、生涯で全国の僧百五十人に授ける。明和4年(1767)3月に西福寺にて神道灌頂が執行され、ここで文濟は活濟上人より正式な神道大阿闍梨として法を継いだと考えられる。安永6年(1777)8月6日、師である活濟上人は70歳にて遷化する。天明8年(1788)秋より文濟は神道灌頂執行の為、百日間の前行をおこない、寛政元年(1789)3月7日、活濟上人の十三回忌追福の為に西福寺にて神道灌頂を執行。文濟は智積院第23世鑁啓僧正に御流神道を授ける。この灌頂では五十余人の僧が法を伝授され、結縁灌頂に入壇した者は四五〇〇余人という大規模なものであった。寛政4年(1792)2月9日には西福寺の本堂が建立され、この頃には弟子の純濟に住職の席を譲っていたようである。本堂建立の後、僅か八カ月後の寛政4年10月15日、61歳で遷化された。

 

第8・9号掲載