橘氏ゆかりの御寺 遍照山西福寺

西福寺の開創より現代にいたる年表

年表

天武天皇代
   天武天皇、除病延命の勅願を下し、恵隠大徳によって一宇の伽藍が建立され釈迦牟尼
   仏と無量寿仏を彫刻し安置する。井堤寺と称し、勅額を賜り摩尼遍照山大光明教寺と
   号する。

 

天平14年(742年)
   橘諸兄、金堂般若殿を建立し井堤寺を再建する。

 

天平15年(743年)2月
   橘諸兄、僧180人を召して大般若経を転読する。講堂・五重大塔・東室・西室・食
   堂・鐘楼・鼓楼・二重の楼門・四面の廻廊・観音堂などを建立し、橘氏の氏寺とす
   る。

 

天平勝宝8年(756年) 
   橘諸兄、金堂四面廻廊の周りに池水を貯め、山吹を植え水に映して黄金世界となす。

 

神護景雲元年(767年)
   孝謙天皇より寺産として近江国高嶋郡安積の水田二百町歩と山背国奈嶋郡の封田百八
   十町歩を賜る。

 

仁明天皇代 
   仁明天皇、母檀林皇后橘嘉智子の氏寺である井堤寺に臨幸する。寺産として和泉国大
   鳥郡日部郷を賜る。これより井堤寺は興福寺の別院となる。

 

平安時代 
   弘法大師空海、井堤寺に入り不動尊を彫刻し21日間護摩修行をする。別院観音寺に暫
   く住し、大日如来を彫刻して南院を建立し安置する。これより法相真言兼学となる。

 

治承4年(1180年)12月 
   平家の南都攻めにより伽藍を焼失する。

 

建久3年(1192年)   
   諸堂が再建される。

 

鎌倉時代後期      
   元弘の乱にて後醍醐天皇の南朝側に味方した為、笠置陥落後に所領は没収され空寺と
   なる。

 

暦応3年(1340年)11月 
   賊軍により伽藍が焼失する。

 

嘉慶元年(1397年)   
   良盛により一堂が再建され、恵隠大徳彫刻の無量寿如来を本尊として納める。釈迦
   堂・鐘楼・大門・僧房5宇・方丈・庫裏・集会所などが再興される。

 

天文14年(1545年)8月
   泉河(木津川)の大洪水により伽藍が破却される。

 

戦国時代         
   良興、寺地を他所に引遷し1宇の精舎を再建する。寺号を摩尼遍照西福教寺と改称す
   る。

 

寛永2年(1625年)    
   深覺房宥昌、西福寺内に圓覺庵を開基する。

 

元禄元年(1688年)2月 
   實祐、弟子實濟を連れ西福寺住職となる。

 

元禄8年(1695年)7月2日 
   勧修寺宮濟深法親王、将軍徳川綱吉より所領として綴喜郡水無村・山本村・久世郡久
   世の計500石を寄進される。当地は勧修寺宮領となる。

 

元禄9年(1696年)6月 
   西福寺本尊の阿弥陀如来像が再興される。

 

元禄17年(1704年)2月12日 
   水無村の西福寺末寺東福寺の本尊脇侍日光菩薩・月光菩薩・十二神将が造られる。

 

元禄年中         
   西福寺が高野山曼荼羅堂客末寺となる。西福寺弘法大師像が造られる。

 

宝永7年(1710年)3月21日 
   實濟、亮範(智積院15世)より報恩院流を伝授される。

 

宝永7年(1710年)11月25日 
   實濟、勧修寺宮慈尊院闊海僧正より勧流を伝授される。

 

正徳3年(1713年)5月3日 
   實濟、仁和寺宮より僧階(権律師・権少僧都・権大僧都・法印号)と色衣(香衣・萌
   黄)を許可される。これより当寺は色衣寺となる。

 

享保7年(1722年)1月 
   井手村真言宗6ヶ寺にて大般若経600巻がつくられる。

 

享保7年(1722年)11月3日 
   活濟、15歳で西福寺に入寺する。

 

享保9年(1724年)3月26日 
   實濟、綺田村蟹満寺にて伝法潅頂を開壇する。

 

享保9年(1724年)4月13日 
   實濟、綺田村蟹満寺空範より報恩院流を伝授される。

 

享保11年(1726年)7月17日 
   活濟、普門品一千巻読誦を成満する。八ツ時に白髪の老人が現れ春日明神作の千手観
   音を與すと告げ消える。これより終身千手供を日課とする。

 

享保12年(1727年)8月5日 
   活濟、御室宮より権律師に任じられる。

 

享保14年(1729年)3月22日 
   活濟、實濟より報恩院流を伝授される。(〜15年5月22日)

 

享保15年(1730年)6月 
   活濟、水谷頼母に入門し儒学詩文和歌を学ぶ。

 

享保16年(1731年)3月2日 
   活濟、権少僧都に任じられる。

 

享保16年(1731年)8月2日 
   活濟、これより15年余かけて諸寺にて諸師について教相を学ぶ。

 

享保19年(1734年)12月3日 
   實濟、自身及び引導の弟子500人の為に土砂加持一千座を開白する。

 

享保20年(1735年)7月8日 
   活濟、御室宮より権大僧都に任じられる。

 

享保21年(1736年) 
   賢濟、西福寺に入寺し活濟の弟子となる。

 

享保21年(1736年)3月21日 
   活濟、西福寺の半鐘を造る。

 

元文2年(1737年)3月 
   實濟、圓覺庵を再興する。

 

元文3年(1738年)10月27日 
   實濟、土砂加持一千座を成満する。弟子活濟に今日入滅すると告げた後遷化する。

 

元文4年(1739年)7月12日 
   活濟、御室宮より法印号に叙される。

 

元文4年(1739年)9月27日 
   活濟、上狛村延命院英性より菩薩大戒を受ける。

 

元文5年(1740年)7月15日 
   活濟、上狛村延命院英性より安祥寺流・三宝院流を伝授される。

 

寛保元年(1741年)10月8日 
   活濟、御室宮より萌黄・黄色の色衣を許可される。

 

寛保2年(1742年)3月18日 
   活濟、上狛村延命院にて伝法潅頂を開壇し大阿闍梨を務める。

 

寛保2年(1742年)3月28日 
   活濟、摂州川邊郡毘陽寺正覚院にて潅頂の大阿闍梨を務める。29日より4/5まで結縁
   潅頂を執行し、受明潅頂15人、結縁7000余人が入壇する。

 

寛保2年(1742年)8月4日 
   活濟、賢濟、石山寺密蔵院嚴遍より西院流を伝授される。

 

寛保2年(1742年)9月26日 
   活濟、石山寺密蔵院嚴遍より石山石流を伝授される。

 

延享元年(1744年)3月15日 
   活濟、南都空海寺にて両部神道潅頂を執行し7000余人に授ける。(〜27日)

 

延享元年(1744年)4月11日 
   活濟、京西賀茂神光院にて結縁潅頂を執行し、8000余人に授ける。(〜27日)

 

延享2年(1745年)5月15日 
   活濟、上狛村延命院にて秘密諸儀軌を伝授される。(〜10/8)

 

延享3年(1746年)1月 
   活濟、東寺長者御室菩提院栄遍の命により正月禁裏御修法の際に五大尊壇諸神供の役
   を務める。

 

延享3年(1746年)8月17日 
   活濟、如意輪観音を感得する。

 

延享3年(1746年)12月16日 
   活濟、仁和寺宮より上人号と香衣を許可される。

 

延享4年(1747年)10月20日 
   活濟、東寺長者栄遍大僧正が東寺拝堂の際に前駈役を務める。

 

寛延元年(1748年)11月4日 
   活濟、西玉水に二百三十金で南北四十間東西二十五間の地を買い、四間十一間半の寺
   一宇・一間四方の地蔵堂・二間の表門・鎮守・二間四方の宝蔵・一間半二間の集所の
   建立を始める。

 

寛延2年(1749年)1月17日 
   西福寺の棟上が行われる。

 

寛延2年(1749年)5月15日 
   活濟、西福寺に本尊阿弥陀如来を入仏する。

 

宝暦3年(1753年)3月26日 
   活濟、勧修寺宮寛宝親王御入壇庭儀潅頂にて十弟子の役を務める。

 

宝暦4年(1754年)9月 
   活濟、上狛延命院英性より御流神道を伝授される。(〜7年)

 

宝暦4年(1754年)12月21日 
   活濟、水無村御室菩提院末寺真蔵院を譲渡される。

 

宝暦8年(1758年)4月16日 
   西福寺が高野山曼荼羅堂客末から離れ、勧修寺宮末寺となる。上の格式と申し渡され
   る。

 

宝暦8年(1758年)9月21日 
   活濟、両界曼荼羅2幅を造る。

 

宝暦8年(1758年)11月21日 
   文濟、真言八祖像8福を造る。活濟が開眼供養する。

 

宝暦11年(1761年)6月21日 
   活濟、千手供を修し瞑想観念すると、金剛盤の上が怪しく煌めき赤色の舎利一粒が現
   れる。

 

明和2年(1765年)4月23日 
   活濟、十一面観世音菩薩像1幅を開眼供養する。

 

明和2年(1765年)4月29日 
   活濟、これより安永5年9月まで毎年両部神道の伝授を行う。智積院一老集議、畿内中
   国九州江信相越奥羽関八州の僧150人に授ける。

 

明和4年(1767年)3月 
   西福寺にて伝法潅頂・神道潅頂が執行される。入壇8人、僧衆50人。結縁潅頂6000
   余人。

 

明和5年(1768年)4月25日 
   勧修寺宮より西福寺に道場荘厳の為、御紋附桃燈2張が寄附される。

 

明和8年(1771年) 
   活濟、古来よりの御流神道に諸記を加え御流神道口決を書く。

 

寛政元年(1789年)3月7日 
   西福寺にて活濟上人十三回忌追福の為に神道潅頂が文濟によって執行される。入壇正
   受者鑁啓(智積院23世)。50余人に附法し結縁潅頂に4500余人が入壇する。

 

寛政4年(1792年)2月9日 
   西福寺本堂が建立される。

 

天保14年(1843年)1月 
   西福寺にて大般若転読法要が行われる。

 

文久2年(1862年) 
   宥向、西福寺山門(薬医門)を再建する。

 

文久2年(1862年)2月18日 
   清水寺忍向(月照)上人母(松室幾圓信尼)が亡くなる。西福寺にて葬式を行う。

 

文久3年(1863年) 
   宥向が西福寺を退院し妙海が法務を執る。

 

文久3年(1863年) 
   釋尭文、この時智積院集議席(39歳、本山年数19年)

 

元治元年(1864年)4月26日 
   妙海、勧修寺宮より西福寺住職に任命され紅・紫を除く色衣を許可される。

 

慶応元年(1865年)7月2日 
   妙海、津軽藩主より津軽弘前最勝院住職を仰せ付けられる。

 

慶応2年(1866年)4月2日 
   妙海、勧修寺宮院室密乗院住職となり西福寺を兼務する。

 

慶応2年(1866年)10月22日 
   妙海、智積院前側席となる。

 

慶応3年(1867年)9月25日 
   妙海、西福寺住職を辞し津軽弘前に帰国する。

 

この後 
   蟹満寺盛孝、西福寺を兼務する。

 

明治2年(1869年)2月13日 
   釋尭文、西福寺住職となる。

 

明治4年(1871年)8月24日 
   釋尭文、勧修寺役者(宝授院尭文)となる。

 

明治5年(1872年)6月 
   水無村の東福寺(真言宗勧修寺末西福寺末寺)、字玉ノ井の玉井寺(真言律宗和泉国
   大鳥郡神鳳寺末寺)が廃寺となる。

 

明治6年(1873年)11月 
   石垣村の観音寺(真言宗石清水八幡宮宝蔵坊末寺)が廃寺となる。

 

明治7年(1874年)6月 
   字玉ノ井の真蔵院(真言宗御室菩提院末寺)、字上井手の正法寺(真言宗御室菩提院
   末寺)が廃寺となる。

 

明治21年(1888年)
   西福寺地蔵堂が再建される。

 

明治22年(1889年)2月18日 
   西福寺にて吉堀慈恭(智積院准化主)戒師による菩薩戒会が行われ179名が受戒す
   る。(〜24日)

 

明治22年(1889年)2月21日 
   西福寺にて菩薩戒会の中日に吉堀慈恭大導師による興教大師750年御遠忌記念奏楽付
   二箇法要が奉修される。

 

明治26年(1893年)4月10日 
   西福寺、勧修寺末寺から智積院末寺に移る。

 

明治35年(1902年)2月18日 
   西福寺にて瑜伽教如(智積院47世)戒師による菩薩戒会が行われ250名が受戒する。
   (〜24日)最終日の夜は徹夜で信者200人ほどが御詠歌和讃などを唱える。

 

明治35年(1902年)2月21日 
   西福寺にて菩薩戒会の中日に第八師団凍死軍人の追吊法会が行われる。当日の参詣人
   は1000人以上。

 

大正4年(1915年)11月 
   八幡禅我、仏像・仏画・法具などの新調修復を行う。

 

大正5年(1916年)9月 
   八幡禅我、大正天皇御即位大典調度品を京都府より下附される。

 

大正13年(1924年)3月24日 
   八幡禅我、智積院にて庭儀潅頂執行の際、会奉行の役を務める。

 

昭和11年(1936年)2月 
   西福寺の庫裏が改築される。

 

昭和54年(1979年)3月 
   八幡覺真、西福寺碑標を建立する。

 

昭和60年(1985年)1月 
   八幡覺真、弘法大師入定1150年御遠忌記念として納骨堂を建立する。

 

平成8年(1996年)3月 
   八幡覚堯、庫裏を改築する。

 

平成10年(1998年) 
   八幡覚堯、本堂・山門・客殿・地蔵堂を改築し仏像法具を新造修復する。