橘氏ゆかりの御寺 遍照山西福寺

淀にあった勧修寺宮院室勝寿院のお話

江戸時代に淀にあった勧修寺宮院室である豊登山勝寿院は幕末からの淀川の河川工事による淀町の消滅とともに現在の宇治市広野町に移転しましたが、その後失われた寺院です。

 

勝寿院の始まりは元禄6年(1693年)8月、幕府より勧修寺に500石の土地が寄進され所領は1012石となります。この時寄進されたのが綴喜郡水無村(現井手町の一部)、山本村(京田辺市三山木の一部)、久世郡久世郷(淀の付近)でした。
勧修寺はこの所領の内、水無村に西福寺と西福寺末寺の東福寺を(所領内に東の薬師、西の阿弥陀として)建立し、久世には勝寿院と号する院室を建立します。
勧修寺にっとって所領内のこの2か寺は京都での唯一の支配下寺院として重要な位置をしめており西福寺と勝寿院は兄弟のような関係であったと思われます。
勝寿院中興の祖は江戸時代中期の快辨上人です。
快辨は下総国相馬郡に生まれ、佐倉の寶珠院快榮阿闍梨に従い同州成田山にて得度します。享保6年(1721年)に四度加行を修行し入洛、智積院に入り享保20年(1735年)に淀藩主の命により勝寿院の住職となります。
元文2年(1737年)秋、快辨は勧修寺宮より上人号を賜り、同年10月には淀藩主の除病の為、春日大社にて七日間の断食断水不眠の祈祷を行います。
元文5年(1740年)春には淀藩主の命にて五大虚空蔵の大法を修し、その霊験によりこの年の秋は諸国で豊作となります。
寛保元年(1741年)夏、藩主稲葉家より祈雨の命があり、七日間の水天供を修します。この祈祷により雨が降り、その霊験は延享5年(1748年)まで現れたといいます。
延享3年(1746年)には快辨の数々の功績により勝寿院に70石の寺領が永世与えられました。
快辨は宝暦7年(1758年)に弟子の宥祥を後席として水垂の大徳寺に隠居し、明和2年(1765年)8月25日に68歳で入寂します。

 

快辨上人より続いた勝寿院の歴代は

 

   第1世 圓海上人
中興 第2世 快辨上人
   第3世 宥祥権僧正
   第4世 快宥
   第6世 快盛 (智積院集議席、出流山千手院住職となる)
   第7世 宥盛 (智積院集議席、佐渡蓮華峰寺住職となる)
   第8世 快専 (智積院集議席)
   第9世 宥信 (智積院集議席)
  第10世 快住 (この後廃寺となる)

 

歴代の勝寿院主は智積院にて研鑚を積んでいました。
勝寿院では文政4年(1821年)と天保10年(1839年)に大曼荼羅供が行われるなどかなりの規模の寺院であったことがうかがえます。